高校生の頃は何も考えていなかった。大学に入ってからは頭の中はデジタルだった…つい最近、ほんとこの一年で世の中の曖昧さを学んだ。世の中はどんなことにも勝ち組負け組み等つけたがっているけれど。確かにそのほうがわかりやすい。わかったつもりになれる。人にも話すことができて、相手も理解しやすい。そんなんでいいのかと思う。じゃあ勝ち組となった本人はどう思っているのか?勝ち組とされた人たちが数年後リストラされる事実をどう考えるのか。ソ○ーの窓際族はどっちなのか?いまだにデジタル的考えを持ってしまっている自分が嫌になる。働き蜂のなかには働かない蜂がいるのだそうだ。そこで働く蜂だけにして巣を作ると、なぜかその中にも働かない蜂が出てきてしまう。世の中もそんなものだろう。一見デジタル的考えで座標を増やしていけばそのN次元空間上では≒連続な人間の様をあらわした分布が出来上がるだろう。じゃあ物事を測る座標を増やしていけばよい。これは簡単にはいかない。座標が従属である可能性を否定できない。2つの座標系の相関があまりにも強かったら因子抽出しなおして新たな座標系を考えるべきだ。というわけでいつまでもデジタルの世界から抜け出せない。しかし世の中がはっきりしなくて曖昧さを含むものであることはわかっている。経験則からか。もしくはまだ自分の目がマクロすぎるのか。私は世の中が曖昧でいてほしい派である。でないとあとあとの楽しみがないからである。もちろん今現在がハッピーならそれでいい。もちろんその後もハッピーという条件付で。私の祖父は無実の罪で刑務所に入ったこともある苦労人だ。しかしその後会社の社長にまでなった男である。葬式は盛大だった。死んだのにお祭りみたいに人が来た。葬式費用が香典だけで集まり逆に余ってしまったのはココだけの話。さぁ曖昧さを理解できたかどうかは自分の未来でわかります。